「ああ、家族だなあ」
という実感があったそうだ。休日には、妻・2人の子どもと共に、家族で動物園を訪ねたり花見を楽しんだりした。時には、父と息子だけで多摩川に魚釣りに行くこともあったという。
真面目な仕事ぶりを認められた小林さんは、昭和40年代には職場の警備会社の教育責任者となっていた。子どもたちも健康に成長していった。中学生や高校生になると、さすがに休日に父親と一緒に行楽を楽しむことはなくなったが、小林さんは、公私とも充実した毎日を送っていた。
そんな毎日が、昭和50年代のある日に一変する。
昼間に帰宅した小林さんの目に入ったのは、妻が近所の男と自宅で浮気している姿だった。小林さんは相手の男を包丁で刺した。相手も包丁で応戦した。この時、左手の指の一本を失った。さらに相手の家に放火。小林さんは、放火・傷害犯として逮捕され、懲役13年の実刑判決を受けて服役する。服役中に妻とは離婚。2人の子どもたちも服役中に結婚。平成2年(1990年)、昭和天皇崩御に伴う恩赦で出所できることになった小林さんに、帰る家はなかった。
ホームレスに、そして生活保護受給へ
Photo by Yoshiko Miwa
小林さんは、現金2万7000円を持って刑務所を出所した。その後は、飯場の手配師をしたり、飯場で土木工事の仕事をしたり、日雇い労働をするなどして生き延びた。しかしこのころ、バブル経済が終焉し、長期構造不況が始まった。いわゆる「失われた20年」のはじまりの時期である。山谷などの寄せ場では、日雇いの仕事を得ることさえ容易でなくなっていた。
仕事を得ることができなくなった小林さんは、「行けば何とかなるだろう」と公園でホームレス生活を始めた。しかし、ホームレス生活は思い描いていたよりもずっと苛酷で「死が目の前にいる感じ」だったという。
まもなく体調を崩した小林さんは、ボランティアでホームレス向け医療相談を行なっていた医師の勧めで病院に入院する。退院時、小林さんに「家族のもとに戻る」という選択肢はなかった。離婚した元妻・2人の子どもたちは、この時期以前に相次いで病死していたからだ。