生活保護のリアル みわよしこ
【第2回】 2012年7月6日 みわよしこ [フリーランス・ライター]

妻の浮気相手への傷害で服役、ホームレスに
高齢生活保護受給者のギリギリの暮らしと思い

生活保護受給世帯の約半数は、高齢者世帯である。生活保護受給者について考えるためには、まず高齢の生活保護受給者の姿を知ることが不可欠だろう。今回は、生活保護を受給している82歳の男性の日常、生活保護受給に至るまでの波瀾万丈の人生、日々の思いを紹介する。

誰もが逃れることのできない「老い」。老いるまでには、長い人生がある。はたして人生は、各人が自己責任で選び取ることが可能なものなのだろうか? どのように老いるかを、各人は選ぶことができるのだろうか? 自分が意図しなかった人生を送り、意図しなかった形で高齢期を迎える可能性は、自己責任で避けることができる性質のものなのだろうか?

「今が一番いい」

小林勇さん(82歳)。東京都中野区で、生活保護を受給して生活している。小林さんは、かつて支援を受けた貧困者支援ボランティア団体に関わり続けており、団体の活動記録をアルバムに整理している。
Photo by Yoshiko Miwa

 小林勇さん(82歳)の朝は早い。午前5時30分、遅くとも6時30分には目が覚めてしまうそうだ。

 自費で購入した介護ベッドから起き上がった小林さんは、洗顔や着替えをして、まず読書をする。小林さんは、苦笑しながら、

「社会保障の本を読むことが多いですね」

 と語る。長年関わっている貧困者支援ボランティア団体で、不要になった社会保障関連の書籍をもらってくることが多いそうだ。

 午前8時ごろ、小林さんは焼いたパンだけの簡素な朝食を摂り、外に出かけてゆく。行き先は主に、東京都・中野区の住まいから徒歩数分の区立高齢者会館やデイサービスセンターである。

 将棋の得意な小林さんは、高齢者会館や特別養護老人ホームなどで、将棋を指導するボランティア活動に参加している。また、ホームレスや生活保護受給者の社会参加を目的として設立された団体にも、ボランティアスタッフとして登録している。ときおり、植木の手入れなどをするという。

 昼食は、高齢者会館で月に数度の会食サービスを利用したり、デイサービスで提供される昼食を食べたりする。デイサービス利用費の月額は、2万円ということだ。

 小林さんの住まいには浴室がない。しかし中野区では、2012年6月30日まで、区内の19の高齢者会館・高齢者福祉センターで、近隣の高齢者に対して浴場を開放し、見守りのある安全な環境での入浴を提供していた。料金は1回300円。この制度は「中野区入浴困難高齢者支援入浴事業」という名称で継続されてきたが、2012年6月30日で廃止された。現在の中野区では、自宅での入浴が困難・危険な高齢者を対象とした入浴サービスは、デイサービスの一環としての入浴サービスのみになっている。

小林さんの住むアパートの居室部分。6畳間。うち1.5畳程度のスペースは、介護ベッド(左)に占められている。
Photo by Yoshiko Miwa

 小林さんは午後も、将棋の指導などのボランティア活動を行う。

「『将棋を教えてくれ』と言われるのは、生きがいで、張り合いです」

 という。

「収入にならないかと思う」

 とも語るが、それは難しいようだ。小林さんに将棋を習う高齢者たちに、経済的に十分なゆとりがあるわけではないからだ。

 午後5時過ぎ、小林さんは帰途につく。夕食は午後6時ごろ。自宅で米を炊き、作り置きのおかずと一緒に食べる。おかずは、ヘルパーに作ってもらっている。介護保険で「要支援2」と判定されている小林さんは、週に2回、1.25時間ずつのヘルパー派遣を受け、家事・買い物などの支援を受けている。生活保護には「介護扶助」があるが、介護保険が優先適用される。

 午後7時にはベッドに入る。すぐに寝るのではなく、TVを見たり、川柳を作るなどの書きものをしたり、本を読んだりする。眠くなったら眠りにつく。

小林さんの住むアパートの近くには、同様のアパートが多数ある。多くの人々が、慎ましい暮らしを営んでいる。
Photo by Yoshiko Miwa

 生活はギリギリだ。「ガス湯沸かし器が故障した」といったできごとの1つずつが、「その費用をどうすれば捻出できるか」という悩みの種になる。たまには故郷の京都を訪ねて墓参もしたい。最後に京都を訪ねてから、もう2年が経過しようとしている。しかし、交通費を捻出できる見通しはついていない。娯楽や嗜好品に向けるゆとりはほとんどない。2日に1箱のタバコが、唯一の嗜好品だ。

 それでも小林さんは、穏やかな笑顔をほころばせながら「今が一番いい」と語る。「たぶん、そうなのだろう」と筆者も思う。六畳の和室・四畳の台所・トイレ・玄関がある、一人暮らしにはちょうどよい広さの木造アパート。家賃は4万5000円。浴室はないけれど、入浴の機会が何らかの形で確保されていれば、不便というほどの不便はないだろう。

 筆者が小林さんの住むアパートに伺った時には、南向きの窓が開け放たれていた。そこには小さな庭がある。スズメの鳴き声が聞こえてくる。さわやかな風が窓から吹き込み、柔らかな日光が差し込んでくる。お茶をごちそうになりながら、筆者は「長生きは辛いことじゃないはずよ」という中島みゆきの歌の一節を思い浮かべていた。こんなふうに日々を送れるのならば、長生きはきっと辛いことなんかじゃない。たぶん、とても素敵なことだ。

 この穏やかな日々にたどり着くまでの小林さんの人生は、どのようなものだったのだろうか?

戦争に翻弄された青少年時代

小林さんのビデオコレクション。ほとんどが、旧日本軍と戦争に関する作品だ。
Photo by Yoshiko Miwa

 小林さんは、昭和4年に京都で生まれた。父は茶道具店と工務店を営んでいた。母は生後すぐに亡くなったので「顔も知らない」そうだ。父には妾がおり、後にその妾との間にも男児が生まれた。小林さんの義理の弟である。小林さんは、父の店の従業員たちに育てられた。

 16歳の時、まだ旧制中学在学中だった小林さんは、少年兵募集に応募して合格した。昭和20年4月、静岡県にあった陸軍少年戦車兵学校に入学。この学校は、当時の少年たちの憧れの的の一つで、選考はかなりの難関であった。小林さんたちは、半年か一年ほどで出征する心づもりで訓練を受けていた。ところが、8月15日には終戦となった。生徒たちは「休暇」を与えられて学校を去った。

 この時期について、小林さんは

「世の中、ごちゃごちゃだった」

 と語る。社会が混乱していただけではなかった。小林さんが兵学校にいる間に、父は妾との間に生まれた息子を養子とし、家業を継がせることにしてしまったのである。「兵士として戦場で戦う」という目標を失ってしまった少年の、長い長い遍歴の始まりであった。

 とにもかくにも、生きなくてはならない。最初は家業を少し手伝っていたが、昭和23年に父が死去。家業は義理の弟が継いだ。小林さんは東京に行き、浅草で露天商となった。本・ゴム・雨具・食糧など、さまざまな商品を取り扱ったという。

就職し、幸せな家庭を実感する日々

 昭和30年代、高度成長期が幕を開けるとともに、就職の機会も増大した。小林さんは警備会社に職を得ることができた。やがて、同僚だった女性と結婚。新居は、会社の管理する賃貸物件の一室。妻はその物件の管理人として働き、小林さんは警備員として勤務を続けた。

 やがて、長女と長男に恵まれた。昭和43年には、東京郊外・東村山市に小さな家も買った。このころについて、小林さんは、

「子どもだけが楽しみ」

 と語る。朝食は必ず、子どもたちと一緒に食べた。

「ああ、家族だなあ」

 という実感があったそうだ。休日には、妻・2人の子どもと共に、家族で動物園を訪ねたり花見を楽しんだりした。時には、父と息子だけで多摩川に魚釣りに行くこともあったという。

 真面目な仕事ぶりを認められた小林さんは、昭和40年代には職場の警備会社の教育責任者となっていた。子どもたちも健康に成長していった。中学生や高校生になると、さすがに休日に父親と一緒に行楽を楽しむことはなくなったが、小林さんは、公私とも充実した毎日を送っていた。

 そんな毎日が、昭和50年代のある日に一変する。

 昼間に帰宅した小林さんの目に入ったのは、妻が近所の男と自宅で浮気している姿だった。小林さんは相手の男を包丁で刺した。相手も包丁で応戦した。この時、左手の指の一本を失った。さらに相手の家に放火。小林さんは、放火・傷害犯として逮捕され、懲役13年の実刑判決を受けて服役する。服役中に妻とは離婚。2人の子どもたちも服役中に結婚。平成2年(1990年)、昭和天皇崩御に伴う恩赦で出所できることになった小林さんに、帰る家はなかった。

ホームレスに、そして生活保護受給へ

小林さんには妻と2人の子どもがいたが、全員が既に他界している。家族を偲ぶよすがは、仏壇の中の位牌だけだそうだ。
Photo by Yoshiko Miwa

 小林さんは、現金2万7000円を持って刑務所を出所した。その後は、飯場の手配師をしたり、飯場で土木工事の仕事をしたり、日雇い労働をするなどして生き延びた。しかしこのころ、バブル経済が終焉し、長期構造不況が始まった。いわゆる「失われた20年」のはじまりの時期である。山谷などの寄せ場では、日雇いの仕事を得ることさえ容易でなくなっていた。

 仕事を得ることができなくなった小林さんは、「行けば何とかなるだろう」と公園でホームレス生活を始めた。しかし、ホームレス生活は思い描いていたよりもずっと苛酷で「死が目の前にいる感じ」だったという。

 まもなく体調を崩した小林さんは、ボランティアでホームレス向け医療相談を行なっていた医師の勧めで病院に入院する。退院時、小林さんに「家族のもとに戻る」という選択肢はなかった。離婚した元妻・2人の子どもたちは、この時期以前に相次いで病死していたからだ。

 誰の扶養を受けることもできず、帰る家も持たない小林さんは、ボランティア団体の支援のもと、平成7年(1995年)にアパートに入居し、生活保護を受給しはじめた。小林さんの世代では、企業等での被用者期間が20年間、または40歳以後に厚生年金加入期間が15年間あれば、老齢年金を受給できた。しかし、いずれの期間も満たす前に事件を起こしてしまった小林さんには、受給資格がなかった。

「生活保護に感謝しています」
その言葉の裏にあるさまざまな思い

小林さんの川柳作品「路上いろは歌留多」。貧困者支援ボランティア団体の会報に掲載された。「さまよひて 仲間(とも)と歩きて 餌さがし」など、ホームレス経験がなくては書けない句が並ぶ。
Photo by Yoshiko Miwa
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「今が一番いい」と語る小林さんは、「生活保護に感謝しています」と言いながら涙ぐむ。その感謝の思いから、不正受給者や問題ある受給者には厳しい目を向ける。

「生活保護なのに、こんなに贅沢している人が」という噂に対しては、「それは絶対、不正受給ですよ」と怒り、「慎め! と言いたい」と憤る。生活保護受給者に対しては、生活保護法の定めるところにより、一年間に二回以上の訪問調査が行われる。小林さんに対しては、年に二回だそうだ。もし、この折に不正受給が発覚すると、始末書の提出・生活保護費の減額・生活保護廃止などのペナルティを受けることになるのだが、小林さんは一度もペナルティの対象になっていない。

 また、稼働年齢の生活保護受給者、特に若年層に対しては、小林さんは厳しい意見を持っている。小林さんは、

「若いやつの生活保護が多すぎる」

 と嘆き、

「安くても、腰掛けでも仕事すればいいんだ。仕事を選びすぎだ」

 という。

小林さんの住むアパートの台所部分。調理家電には几帳面にカバーがかけられている。
Photo by Yoshiko Miwa

 確かに、生活保護受給を視野に入れなくてはならないほど困窮した若年層は、対価の安い仕事・短期間の仕事にしか就けないことが多い。しかし小林さんは、

「それならそれで、生活保護があるんだから」

 ともいう。

 なぜなら生活保護は、まったく働けない人だけのための制度というわけではなく、資産がなく、収入が最低生活費に満たない人のための制度だ。収入が低いのならば、収入と最低生活費との差額は、生活保護費として受給することができる。まったく働かずに生活保護を受給しようとする若年層を、小林さんは容赦しない。

小林さんの台所にある食器。高級感を感じさせるものは1つもない。
Photo by Yoshiko Miwa

 一方で、小林さんは若年層の貧困者の今後を、非常に憂慮している。

「今、20代のホームレスが増えてるんだってねえ。このあいだ聞いた話では、新宿で23歳の人がホームレスをしているんだって」

 そう語りながら、小林さんは、孫の将来を案じる祖父のような眼差しになる。20代のホームレスが80代になるころ、果たして、日本は、日本の生活保護制度は、どうなっているのだろう? はっきりしているのは、現在の高齢者世代がその成り行きを見届けることはできないということだ。

 現在の小林さんは、とても温和な高齢者だ。しかし、

「今後、無年金高齢者・最低生活費にも満たない老齢年金しか受給できない高齢者に対しても、生活保護を受給させる必要はない」

 という極論に対しては、小林さんは、

「それでは、あなたが、その最低生活費以下の老齢年金で暮らしてみてください」

 と、毅然と反発する。また、

「生活保護費を削減せよ、生かしてやっているだけで充分ではないか」

 という世間の一部の声に対しても、はっきりと怒りの声を上げる。

小林さんの愛読書の一部。社会保障・政治・経済に関する書籍ばかりだ。
Photo by Yoshiko Miwa

「人間の生活をどう考えているんだ? と思います。そういうことを言う人たちは、ときどき、ちょっと甘いお菓子を食べたりとかしたくならないんでしょうか? きっと、その人たちには、生活保護が見えていないんだと思います」

 小林勇さんの物語を通して、生活保護という制度の姿が、いくらか明瞭になったであろう。しかし、ただ1人の体験を通して生活保護の姿を立体的にとらえることは、不可能だ。

 次回は、もう1人の高齢者に登場を願い、さらに生活保護の姿を明瞭にとらえる努力をしてみたい。