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山本浩二監督「我が道」特別版

番外編 女房のおかげで野球に専念できた

70年オフの結婚式で、鏡子夫人と笑顔で見つめ合う

 プロ2年目の1970年(昭45)12月17日、1歳年下の鏡子(きょうこ)(旧姓長谷部)と結婚した。法政大学野球部の同期生、吉田京司のいとこ。3年の秋、住友信託銀行に勤めていた彼女を紹介された。

 4年になると土日の試合はほぼ見に来てくれた。いつも私が守るライトの芝生席。客がほとんどいないから目立った。特に三塁ベンチのときはマウンドの向こうに彼女が見える。「誰や?」とよく冷やかされた。

 プロポーズの言葉は「両親に会ってくれ」だったらしい。1年目のオフに両親に会わせ、2年目に挙式。新婚旅行はグアムだった。今年で結婚43年になるが、女房には頭が上がらない。

 新婚時代、自宅でのバットスイング。なにか動く目標が欲しい。最初は新聞紙を丸めて投げてもらった。だが、当たると痛い。そこでピンポン球くらいの大きさに切ったスポンジに替えた。試合後、家に帰り、食事が終わって約100球。優勝する75年まではほぼ毎日、その後も調子が悪くなると投げてもらった。怖かったろうが、よくやってくれた。

 71年12月には大事故に巻き込まれた。オフのイベントで広島県賀茂郡西条町(現東広島市)のボウリング場へ向かう途中だった。安芸郡瀬野川町(現広島市安芸区)の国道2号、上りの右カーブに差しかかったときだ。対向車線の11トントラックがオーバーランして2台前の乗用車に正面衝突。そのまま前の車と、私が運転するマツダ・カペラにぶつかった。

 ハンドルを握っていた私は無傷だったが、助手席に乗っていた妊娠5カ月の女房はフロントガラスに突っ込み、近くの救急病院で合計55針縫う重傷を負った。

 妊娠しているから麻酔は使えない。転院した東洋工業病院の先生が「感謝しなさい。救急ながら物凄く丁寧に縫っている」と感心したほど見事な施術で傷あとはほとんど残っていないが、麻酔なしで55針である。頑張って耐え、翌72年4月に長男を産んでくれた。

 前後して父が経営する上下水道管工事の会社が倒産。渡した契約金で買ってくれていた土地も手放し無一文になった。プロ野球選手でありながら月末に500円しかないこともあった。

 苦しかったのは1年くらいだったが、やり繰りして乗り越え、77年に次男、78年に三男を出産。私は1年のうち半分は家にいない。子供の行事に顔を出したのも長男の運動会1回しか記憶にない。教育はすべて女房任せだった。

 息子たちは3人仲良く近所に住み、しょっちゅう集まってご飯を食べている。

 親としてこれ以上うれしいことはない。私が野球に打ち込めたのも、家族が楽しく過ごせているのもすべて女房のおかげである。

[ 2013年2月28日 ]

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 ◆山本 浩二(やまもと・こうじ=本名浩司)1946年(昭21)10月25日、広島県生まれ。廿日市高から法大に進み田淵幸一、富田勝と「法大三羽ガラス」として鳴らす。68年ドラフト1位で広島入団。「ミスター赤ヘル」として5度のリーグ優勝に貢献し、首位打者1回、本塁打王4回、打点王3回、MVP2回に輝く。球界初の鳴り物入り応援を背に大学出身者としては最多となる通算536本塁打。背番号8は永久欠番。2008年野球殿堂入り。12年10月から侍ジャパン監督。

 ※これは2010年10月1日から同31日までの1カ月間、スポーツニッポン紙上で連載された記事に加筆したものです

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